月面郵便局、配達不能
西暦二五二〇年。
人類は、ほとんど手紙を書かなくなっていた。
連絡は量子通信。 感情共有。 脳内メッセージ。
思った瞬間に届く。 誤字もない。 待ち時間もない。
だが、それでも“紙の手紙”を好む人々は存在した。
火星移民の老人。 木星圏の詩人。 地球の古典研究家。
そして月面都市には、太陽系最後の郵便局が残っていた。
正式名称「月面中央郵便局」。
人口二百万の都市に対して、職員はたった七人。
その中で最年少なのが、配達員の青葉トウマだった。
二十四歳。
無重力バイクでドーム都市を走り回るのが仕事だ。
「今どき郵便屋って……絶滅危惧職種ですよね」
新人時代、彼は局長にそう言った。
白髪の局長は笑った。
「だから面白いんだよ」
トウマには、その意味がずっと分からなかった。
ある夜。
局内整理をしていたトウマは、一通の奇妙な封筒を見つけた。
黒い封筒。
差出人なし。 消印なし。
宛名だけが銀色で印字されている。
『配達先:まだ存在しない人』
「……は?」
トウマは封筒を裏返した。
切手もない。
だが奇妙なことに、郵便管理AIはその手紙を正式登録済みとして認識していた。
「エラーか?」
トウマは端末を叩いた。
しかし画面にはこう表示される。
『最優先配達物』
しかも配達期限は、今夜零時。
「存在しない人に、どう届けろって……」
その時。
局内の照明が一瞬消えた。
警告音。
『時空通信干渉を検出』
「え?」
次の瞬間。
郵便局の自動ドアが開いた。
誰もいない。
だが外の通路に、青白い霧のようなものが漂っていた。
そして、郵便受けが一斉にカタカタ鳴り始める。
トウマは思わず後退した。
「なんだこれ……」
すると背後から声がした。
「やっと来たか」
局長だった。
だが妙だった。
いつもの眠そうな顔ではない。
まるで何かを覚悟した人間の顔だった。
「局長、これ何なんです?」
局長は黒い封筒を見た。
そして静かに言った。
「未来郵便だ」
「未来?」
「まだ生まれていない人へ届く手紙」
トウマは眉をひそめた。
「意味が分かりません」
「私も最初はそうだった」
局長は郵便局の奥へ歩き出した。
「来なさい」
地下倉庫。
普通の職員は立ち入り禁止の区画だ。
局長が古い認証キーを差し込むと、重い扉が開いた。
中には大量の棚が並んでいた。
すべて手紙。
紙の封筒。 カード。 古びた小包。
その数は数十万通以上。
「全部、未来郵便だ」
トウマは呆然とした。
「誰が出したんです?」
「未来の人間」
「は?」
局長はため息をついた。
「二百年前、量子通信実験中に偶然見つかった」
局長は一通の手紙を取り出した。
『二七八一年の火星より』
「未来から、過去へ手紙が届くようになった」
トウマは笑った。
笑うしかなかった。
「いやいやいや、そんなの物理法則が」
「壊れた」
局長は真顔で答えた。
「未来郵便だけは、なぜか届く」
トウマは頭を抱えた。
その時。
地下倉庫の奥で、小さな光が点滅した。
局長の顔色が変わる。
「まずい」
「何が?」
「配達不能区域が開いた」
「なんですかそれ」
局長は答えず、奥の扉を開けた。
その向こうには、駅があった。
地下鉄みたいなホーム。
だが窓の外には宇宙が広がっている。
「えっ!?」
銀色の列車が静かに停車していた。
車体には古い文字。
『配達不能郵便専用列車』
トウマは固まった。
「何なんですか、この郵便局……」
局長は帽子を被り直した。
「月面中央郵便局の本当の仕事は、“時間に迷った手紙”を届けることだ」
その瞬間、黒い封筒が震えた。
封が勝手に開く。
中には、一枚の便箋が入っていた。
『お父さんへ』
トウマは目を見開いた。
その文字。
見覚えがあった。
自分の字だ。
「……え?」
続きを読む。
『もしこの手紙が届いたなら、僕はまだ生まれていない』
トウマの呼吸が止まった。
『でも未来で、あなたはちゃんと父親になってたよ』
『だから安心して』
便箋が震える。
『そして、どうか郵便局を辞めないで』
『あの日、最後の配達をしてくれてありがとう』
トウマはゆっくり顔を上げた。
「これ……誰が……」
局長は静かに言った。
「未来の君の息子だろう」
トウマは椅子へ座り込んだ。
自分は恋人すらいない。
なのに未来には息子がいる。
しかも、その息子はまだ存在していない。
頭がおかしくなりそうだった。
すると突然、列車の警笛が鳴った。
ホーム全体が揺れる。
局長が低く言った。
「来るぞ」
「何が?」
宇宙空間に、巨大な黒い亀裂が開いた。
闇。
だが星のない闇だった。
AI音声が響く。
『時間崩壊領域接近』
『未配達情報を回収します』
トウマは鳥肌が立った。
「未配達情報?」
局長は苦い顔をした。
「未来ではな、情報が存在できなくなる領域が生まれた」
「意味が分かりません」
「誰にも届かなかった想いは、消えるんだ」
トウマは黒い封筒を見た。
未来の息子からの手紙。
もし配達されなければ。
その未来自体が消えるのかもしれない。
局長が列車へ乗り込む。
「最後の配達だ」
「最後?」
「私はもう引退だからな」
局長は笑った。
「次はお前の仕事だ、トウマ」
列車が動き始める。
トウマは叫んだ。
「待ってください! 配達先はどこなんです!?」
局長は振り返った。
「まだ存在しない場所だよ」
「は!?」
「未来ってのは、そういうものだ」
列車は宇宙の闇へ走り出した。
黒い亀裂の中へ消えていく。
トウマはホームに一人残された。
静寂。
そしてポケットの中で、黒い封筒がほんのり温かかった。
翌朝。
月面中央郵便局はいつも通り営業していた。
誰も地下の駅を知らない。
局長も出勤してこない。
机には退職届だけが置かれていた。
『最後の配達へ行ってきます』
トウマは小さく笑った。
そして制服を着直す。
机の上には、新しい封筒が置かれていた。
『配達先:千年後の誰か』
トウマは深くため息をついた。
「……面白くなってきたじゃん」